その他見どころ
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好間炭礦専用鉄道沿線
久世原館・番匠地遺跡
内郷御厩町に久世原館・番匠地遺跡がある。約2000年前の弥生時代中期後半の水田跡が検出。
東北では宮城県、青森県について3例目。狭い谷を利用した水田跡は全国でも例がない。隣接の久世原館跡からは「磐城郡印」の鋳型が出土。
昭和60年(1985年)都市計画街路内郷駅平線(現市道内郷平線)の改良工事による発掘調査で、貴重な遺跡であることが証明された。出土した鋳型は粘土を焼いたもので、「磐城郡」の印章と推定される。出土品は市考古資料館に保存されている。 -
好間炭礦専用鉄道沿線
四家酒造
有名な俳優やタレントのファンもいるという「又兵衛」を造る四家酒造店。
創業は江戸末期の弘化2年(1845年)。創業者である初代又兵衛は、酒好きが高じて自ら酒造りを始めたというユニークな逸話を持つ。
首都圏を始め全国にファンを持つ「又兵衛」は、珍しく人の名をお酒の名前につけており、「又兵衛」を代表銘柄に、いわきの地酒として地元はもちろん、多くのファンを持つ銘柄に成長した。冬
でも気候が温暖ないわきでは、仕込みの際の醪(もろみ)の管理が難しいという。限られた時間の中で、細心の注意を払い、質の向上を目指している。
「山田錦」などを使う「大吟醸」や「吟醸」を除けば、使用しているのはこだわった福島県産の米。辛口から甘口まで多種多様なお酒のラインナップがあるのもこの蔵の特徴だ。 -
内郷線沿線
内町公園(旧内郷山神社)
常磐炭礦(株)は、内郷地内の峰根、町田の山神社を合祀、新社は内町に昭和26年(1951年)12月完成、春の祭典は盛大に開催された。
しかし、坑口の集約によって内郷鑛の各坑を閉山とし、山神社も湯本礦山神社に合祀され、跡地は市の内町公園となっている。 -
内郷線沿線
金坂銀座通り
昭和30年(1955年)頃の金坂銀座通り。石炭産業が繁栄し、周辺の商店街では狭い道路に買い物をする人たちが沢山往来していた。
金坂商店街主催の売り出しセールには、東京から大物歌手による歌謡ショーが浅野記念館で開催された。 -
内郷線沿線
いわき回転櫓盆踊り(金坂グラウンド)
盆踊りは炭鉱生活を慰安するため、金坂グラウンド、現在の内郷二中校庭にて昭和23年(1948年)から開始された。
昭和27年(1952年)には回転式の櫓が取り入れられた。
常磐炭礦内郷礦が縮少されたことから昭和34年(1959年)から場所を内郷駅前に移し、現在も内郷の夏の風物詩として引き継がれている。 -
内郷線沿線
旧常磐炭礦金坂グラウンド
常磐炭礦(株)の前身である磐城炭礦(株)が昭和時代初期に建設したグラウンド。
写真の中央を専用鉄道が通る。写真右側は金坂銀座などの商店街。炭鉱が華やかなりし頃は、内郷礦の各坑が集まって運動会が開催された。 -
内郷線沿線
鍵金(かんかね)の山道
阿弥陀堂裏山から宮方面に抜ける細い道を「かんかね」と呼んだ。その名のいわれには、昔この山道を通って白水に入ってくる不法者の侵入を防ぐため、関所に柵を設けその門戸には大きな鍵の金具を取り付けてあったことから、何時しか「かんかね」と呼ばれた風説がある。
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内郷線沿線
炭鉱住宅
炭鉱で働く男たちや家族たちの多くは炭鉱が建設した住宅に住んだ。
一人でも多くの屈強な男たちを集めるためには、地元だけでなく遠くからの移住者も必要となった。これらの多くの人々が炭鉱で働いてもらうためには、住居の確保は必要な要素であった。最初の住居は一棟の建物を棟を中心にして仕切った棟割長屋で、その格好から「ハモニカ長屋」と呼ばれた。
戦後の昭和22年(1947年)、傾斜生産方式で石炭産業が国の保護を受けるようになると、国の支援を受け住宅の改良計画が進められた。かつての棟割長屋は姿を消し改良された炭鉱住宅へと変わった。
職員用の炭鉱住宅は一戸建てが多く、階級が上がるにつれて、住居待遇が良くなった。 -
内郷線沿線
炭鉱住宅 宮町
元々は棟を真ん中にして背中合わせ状に部屋が仕切られていた。戦後、改良されたが珍しく残った。
部屋の造りがちょうどハーモニカの形に似ていたので、ハモニカ長屋とも呼ばれた。 -
内郷線沿線
炭鉱住宅 内町の西区・前田区
内郷山神社付近からの写真、左方が綴駅や内郷市街地、中央が常磐製作所、右方が白水、湯の岳の稜線が見えるこの一帯はもとは農家の水田であった。
子供たちは畦道を通って内町小学校に通学した。 -
内郷線沿線
高野花見山
ソフトクリームを片手に3万坪の敷地を散策。180種の草木を四季折々楽しむことができる。
一番のオススメは花と湯の岳のロケーション。ハンカチの木が見事。
☎0246-27-2537
営業時間:4月~7月、9月:9:00~17:00、10月・11月・3月:9:00~16:00
定休日:不定休(悪天候日、8月、12月~2月) -
内郷線沿線
高野鉱泉入の元湯
無臭で無色透明の湯は、PH値が高く肌がツルツルになり湯冷めしない。
また、合掌造りの建物では囲炉裏を囲んで「お狩場焼き」が楽しめる。とり肉・川魚・野菜・揚げ物等を自分で焼いて頂くのは趣があり家族でも楽しめる。日本の古民家でジャパニーズBBQはいかが?
☎0246-27-3939
日帰り入浴時間:13:00~19:00
お狩場焼き:昼・夜可能(ただし予約のみ) -
入山線沿線
片寄平蔵頌徳碑
片寄平蔵は文化10年(1813年)、笠間藩領磐前郡大森村(現在のいわき市四倉町)で生まれた。
叔父にあたる材木商利兵衛の養子となり、奥州一円にわたり取引をするようになる。
安政元年(1853年)、江戸の取引先である明石屋治右衛門から「黒船」の燃料となる石炭について教えられ、故郷で石炭を求めることとなる。
安政3年(1856年)、親友である高崎今蔵とともに白水川に面した弥勒沢で石炭の露頭を発見。常磐炭田の開発に大きな貢献をなした。
昭和30年(1955年)、白水阿弥陀堂地内に「頌徳碑」を建立。その後、石炭発見地である弥勒沢入口に移設された。 -
入山線沿線
加納作平翁碑
加納作平は天保元年(1830年)、泉藩領内の菊多郡滝尻村(現在のいわき市泉町)で生まれた。
17歳で入婿し長男が生まれた後、加納作次郎の養子となり、石炭業に貢献。
明治4年(1871年)、小名浜港でロシア船に石炭を販売したことから諸方にその名を知られるようになり、さらに西南戦争による九州炭の不足で作平の売炭業は隆盛となり、一時は内郷を中心として十六坑口を経営するほどに繁栄した。
明治25年(1892年)没。明治33年(1900年)に白水炭山有志一同が記念碑を建立した。
碑は転々と場所を変えたが、平成4年(1992年)に現在地に落ち着いた。 -
入山線沿線
石炭の発見地
現在の内郷白水町広畑地内。片寄平蔵と高崎今蔵が安政3年(1856年)ここで石炭を発見した。
現在でも石炭の露頭を手近に見ることができる。
いわき市の近代産業生誕の地とも言うべき場所であり、本市の近代史を語るうえで欠かせない場所となっている。 -
入山線沿線
みろく沢炭鉱資料館
市道弥勒沢線の終端に位置する、個人所有の炭鉱資料館。 平成30年(2018年)に開館30周年を迎えた。 館主の渡辺為雄氏(大正15年(1926年)生まれ)が長年かけて収集した資料を無料で展示しており、年間を通していつでも館内を見学することができる。 -
入山線沿線
旧白水小学校
入山採炭(株)は京都・東本願寺の協力を得て、炭鉱労働者の子どもたちのための私塾「智徳学館」を明治31年(1898年)に設立した。これが白水小学校の前身である。
昭和30年代には800人近くの児童が在籍したが、炭鉱閉山により児童数が激減し、平成の終わり頃には全校児童数数名という状態が続き、平成31年(2019年)3月多くの人に惜しまれつつ閉校となった。
白水小学校の対岸には白水炭磺(のち王城炭礦)の坑口があり、学校の南に東西に伸びている道路は石炭専用鉄道の跡で、校庭の南半分は石炭積込場(万石)であった。
※お越しの際には公共交通機関のご利用をお願いいたします。
※ルート内で歩きながらのスマートフォン等の使用はご遠慮いただきますようお願いいたします。